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9月, 2023の投稿を表示しています

サンパウロ市立劇場(Theatro Municipal, Sao Paulo)

沿革 サンパウロを代表する歌劇場の構想は、国際舞台での重要性の増大が端緒となった。当時のサンパウロ市内には20世紀初めごろから、コーヒープランテーションの経営で財をなしたブルジョワジーや、大勢のイタリア系ブラジル人が居住していた。一方で、市内にはサンベント劇場しかなく、それも海外で製作された大規模なオペラの上演には不向きとなっていた。そのためサンパウロの特権階級はそれらのオペラも上演でき、海外の一流の劇場を模した新たな劇場の建設を求めるようになった。

イヴァン・ヴァゾフ国立劇場(Ivan Vazov National Theatre)

概要 イヴァン・ヴァゾフ国立劇場は解放後ブルガリアで最も権威ある劇場であり、1904年に1906年から1952年にブルガリア国立劇場に変貌した大都市ドラマグループ「涙と笑い」の後継者です。1952年から62年は、1962年から77年、そして1982年以来ずっと、イヴァン・ヴァゾフ国立劇場で、将来的には国立劇場Krstyu Sarafovoと呼ばれていました。

グロスター大聖堂(Gloucester Cathedral)

概要 678年または679年に建てられた聖ペトロへ献堂された修道院を前身としている。現在、イングランド国教会のカンタベリー大聖堂管区・グロスター主教区に属する。

アークシャルダーム寺院(Swaminarayan Akshardham, Delhi)

概要 植物や動物、神々の彫刻が施された石造の寺院は、高さ43メートル、幅96メートル、長さ110メートルある。ラージャスターン州産の砂岩やイタリア・カッラーラ産の大理石を使用するなど、建築には鉄やコンクリートが使用されていない。他に象の彫刻やスワーミーナーラーヤンの巨大な絵が掲げられている。内部にある、スワーミーナーラーヤンの生涯を動く人形やジオラマで表現したアトラクションや、模型の間を進みインドの歴史を辿るボートライド、同聖人に関連した内容の映画があるのも特徴。

ニューハウン(Nyhavn)

概要 ニューハウンとは「新港」という意味であり、国王クリスチャン5世によって建設された。1671年から掘削が開始され、1673年に完成した。埠頭となる水路があり、ヨットや観光船が行き来している。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが、ここを居所とし18年間住んでいたこともあった。

フレアホール(Frere Hall)

場所 シビル・ラインズ地区内のアブドゥラ・ハルーン・ロードおよびファティマ・ジンナー・ロードの間に位置し、二箇所の芝生が各道路まで張り出している。周囲には、マリオットホテルや米国総領事公邸、日本国総領事館やシンド・クラブが立地している。

ガラタ塔(Galata Tower)

概要 9階立てで、高さは66.9メートル。イスタンブールの街を一望でき、人気の観光名所となっている。

フェニーチェ劇場(La Fenice)

劇場名称の由来 イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し、その名は1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられた。その後この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼したが、その都度再建がなされ、「不死鳥」の名にふさわしい歴史を誇る。

天安門広場(Tiananmen Square)

沿革 明の成祖永楽帝が北京遷都した時期には天安門から南下し「大明門」に至る「千歩廊」と処される大通りと、現在の長安路に存在した「長安左門」と「長安右門」の間を結んだ丁字形の空間が存在し、天安門広場の原形が既に存在していた。

氷川丸(Hikawa Maru)

概要 「氷川丸」は、横浜船渠で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年まで北太平洋航路で運航を続けた。

ミニヨーロッパ(Mini-Europe)

概要 公園内には電車、工場、噴火するベスビオ山、ケーブルカーなどの実写モデルがある。ガイドはすべての記念碑に関する詳細を説明してくれる。展示の最後にはヨーロッパの精神展があり、マルチメディアゲームの形式で欧州連合の概要を双方向で伝える。

デルタ航空博物館(Delta Flight Museum)

展示機材 デルタ航空及び経営統合前のノースウエスト航空で使用されてきた航空機が1と2に分かれた展示施設「ヒストリックハンガー」と、屋外施設の計3箇所に分かれてに置かれている。

東山スカイタワー(Higashiyama Sky Tower)

概要 展望台としての観光用途の他、防災無線の中継基地として14基のパラボラアンテナと無線機械室を備える他、高所監視カメラを設置するなど、名古屋市の防災上重要な役割を果たしている。

ジェノヴァ大学(University of Genoa)

歴史 1481年に設立された。学生はジェノヴァはもとより、イタリア全土やヨーロッパ各地から集まる。

スコットランド国立美術館(National Gallery of Scotland)

概要 1912年には隣接する王立スコットランド・アカデミーとともにウィリアム・トマス・オルドリーヴによって改築されている。改築終了後の再開館時には、スコットランドとヨーロッパ諸国美術の常設展示に力が入れられていた。

第一共和国広場(First Republic Square)

概要 この広場は1983年に建設され、「共和国広場」と名付けられた。バラ革命後の2005年、この広場は「バラ革命広場」に改名された。その後2018年5月25日、グルジア民主共和国の建国100周年を記念し、トビリシ市議会はこの広場を「第一共和国広場」と改名した。

カスティーリャ騎士館(Auberge de Castille)

歴史 1744年にカスティーリャ王国騎士団の宿舎として建設された。カスティーリャ王国自体は1715年に消滅している。1798年、騎士団はナポレオン・ボナパルトによって国外に追放された。

凱旋門(Arcul de Triumf)

概要 凱旋門の高さは27mで、底部は25x11.50mの長方形となっている。ファサードの彫刻は、イオン・ジャレアやディミトリエ・パシウレアなど、ルーマニアの著名な彫刻家たちによって製作された。

フセイニ・モスク(Husseini Mosque)

モスクの建物の歴史 大フセインモスクは、アンマンにおいて実施された最初の建築プロジェクトだと見なされている。モスクの建物は、1924年に始まり1927年に建設が終了したラグダーン宮より先にあった。

マフムーディーヤ・モスク(Mahmoudiya Mosque)

概要 マフムーディーヤ・モスクは、2つの中庭と、3つめの小さな中庭の周りに配された、複数の建築からなっている。建物と、門と、中庭は、18世紀から19世紀にかけて、南部シリア地方がオスマン朝の支配下にあった間に、数度に渡って建てられた。

カジミェシュ宮殿(Kazimierz Palace)

歴史~ワルシャワ大学~ 1814年に火災で宮殿前のバラックが焼失し、1816年にはその場所にヤコブ・クビキが設計した2つのパビリオンが設置された。同年、この宮殿はワルシャワ大学の所在地となった。1817年から1831年にかけては、ワルシャワ中等学校も併設され、そこではフランス出身で、フレデリック・ショパンの父であるニコラ・ショパンがフランス語を教えていた。

ベルビュー宮殿(Bellevue Palace, Germany)

歴史 1843年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がベルビューを購入し、1865年に姪のアレクサンドリーネの邸宅とした。1918-19年のドイツ革命まで王族の所有物であった。

モヌメンタル闘牛場(La Monumental)

歴史 バルセロナのアシャンプラ区にある。1914年に竣工し、1916年に増築されて現在の名称となった。19,582人を収容する。2010年7月28日、カタルーニャ州議会はカタルーニャ州内での闘牛の興行を禁止する法律を制定した。闘牛禁止法は2012年1月1日から効力を発揮し、モヌメンタル闘牛場はカタルーニャ州で闘牛の興行を行った最後の闘牛場となった。

計量所(Waag, Amsterdam)

概要 ニーウマルクト広場の中心にあるこの建物は1488年に造られたアムステルダムの城壁のひとつで、17世紀に入り建物前の広場で行われる市場の計量所として1階が利用される様になった。当時2階はギルドとして使われていて、外科組合の解剖学の講義などが行われ画家達を招き絵を描かせていた。その様子を描いたレンブラント・ファン・レインの『テュルプ博士の解剖学講義』は、彼の出世作として有名である。

国会議事堂(Old Royal Palace)

歴史 1843年にギリシャ王室の宮殿として建設された。費用は国王オソン1世の父ルートヴィヒ1世が負担した。設計はドイツ人建築家フリードリッヒ・フォン・ゲルトナーで、装飾が簡略化されたギリシャ建築である。

ロイヤルオンタリオ博物館(Royal Ontario Museum)

概要 1912年4月16日に建物が完成し、1914年3月19日に開館した。1955年まではトロント大学により運営され、現在は独立の機関として運営されている。博物館は、クイーンズ・パークとトロント大学のそばにある。恐竜の化石、中近東の美術、アフリカ美術、東アジアの美術、ヨーロッパ史、カナダの歴史と文化、生物の種の多様性、考古学などの収集品で知られている。博物館内に所蔵されている分量に対して建物の規模が小さく、展示面積が十分でないことから、館内で見られるものは全体のほんの一部にすぎない。

ハリウッド第一長老教会(First Presbyterian Church of Hollywood)

歴史 創設当初は700名ほどの小さな教会であったが1921年にスチュアート・マクレナンが牧師に就任してから急成長。礼拝出席者1,600名、教会員1,000名を数えるようになった。また、マクレナン牧師はヘンリエッタ・メアーズを教会学校の責任者として1928年に招聘した。

クイリナーレ宮殿(Quirinal Palace)

概要 ファサードはドメニコ・フォンターナが設計した。大礼拝堂はカルロ・マデルノが設計した。グイド・レーニ作のフレスコ画もあるが、階段の上にあるメロッツォ・ダ・フォルリのフレスコ画「祝福するキリスト」が有名である。敷地内には18世紀に整備された有名な庭園がある。

ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)

概要 ウィリアム1世以来、エドワード5世、エドワード8世を除くすべてのイギリスの歴代王が、「エドワード懺悔王の礼拝室」で戴冠式を行っている。この部屋にはかつてスコットランドから持ち帰られた、スコットランド王権を象徴するスクーンの石を嵌めこまれた戴冠式用の玉座があったが、スクーンの石は1996年にスコットランドに返還された。

ニューオーリンズジャズ博物館(New Orleans Jazz Museum)

私達の使命 ニューオーリンズジャズ博物館の使命は、活動的対話式の展示を通し、多様な世代への教育プログラム、研究施設と音楽演奏の雇用、全ての形式でジャズの歴史を祝福する事です。ニューオーリンズジャズ博物館は、音楽家達や全ての言語の民族の音楽愛好家達へ多様な資源を提供する事により、ニューオーリンズの文化的復活を高めます。ニューオーリンズジャズ博物館は、ジャズ発祥の街からアメリカ真髄の音楽芸術形式を探究する事を探求します。ニューオーリンズジャズ博物館の未来像は、ジャズの発祥地と言う完全な街でジャズの歴史を明らかにし楽しむ事です。

ピサ植物園(Orto botanico di Pisa)

概要 1544年に、初代トスカーナ大公、コジモ1世のもとでヨーロッパで最初の大学教育のための植物園といて創設された。高名な医学者、植物学者のルカ・ギーニと弟子たちによって各地の植物が集められた。最初、アルノ川沿いの造船所近くに造られた植物園は1563年にピサのサンタマルタ修道院の近くに移され、1591年に再び移転され、現在の場所になった。これらの初期の時代から植物園には博物学の展示館、図書館が含まれ、歴代の園長の肖像画が展示されている。

革命博物館(Museum of the Revolution, Cuba)

展示 ガラスケースに入れられた、グランマ号が隣接して保存されている。

ディズニー・アニマル・キングダム(Disney's Animal Kingdom)

概要 1998年4月22日にウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートで4番目のディズニーパークとして開園。シンボルはパークの中央に位置する巨大な樹「ツリー・オブ・ライフ」。本物の野生動物の暮らすジャングルやサバンナなどのエリアと各種アトラクションが混在する非常にユニークなテーマパークである。

セナド広場(Senado Square)

歴史 広場の周囲を囲む主な建物はヨーロッパ様式であり、多くが歴史的建造物として保存されている。過去には車両の乗り入れが可能で駐車場が存在した時期もあったが、観光客の増加にともない、1990年代前半にポルトガル式歩道に造り替えられ、歩行者空間となっている。

慈照寺(Ginkaku-ji)

歴史 室町幕府8代将軍足利義政は1473年に子の足利義尚に将軍職を譲り、1482年から東山の月待山麓に東山山荘の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った1465年は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。

昌徳宮(Changdeokgung)

歴史 1405年に、景福宮の離宮として創建され、景福宮が焼失したため李氏朝鮮第9代成宗が正宮として使用している。昌徳宮は文禄の役で焼失した後、風水上不吉とされた景福宮より先に復旧工事が始まったものの、1623年の仁祖反正の時に再び焼失し、1647年に再建された。

國前寺(Kokuzenji)

沿革 1656年、広島藩浅野家2代藩主浅野光晟正室の満姫の帰依により浅野家の菩提寺となり、現名の「国前寺」に改名した。その後本堂は満姫が、その他諸堂は光晟が建立し直した。1692年、不受不施派禁圧により寺領を没収させた。この際浅野家は天台宗に改宗し牛田の日通寺に菩提寺を変えている。

ホノルル動物園(Honolulu Zoo)

沿革~カピオラニ王妃公園~ 1876年、ハワイ王国のカラカウア王は、ダイヤモンドヘッド近くの王国所有の土地を30年リースとして公共のため国民に開放した。リース契約に加入した200人は「カピオラニ公園組合」を結成し、300エーカーに及ぶ同地の環境整備にあたった。1877年、小さな沼や池、湿地は整備され、カラカウア王の王妃エスター・カピオラニにちなんで「カピオラニ王妃公園」と名付けられ、国民に開放された。

ヒロ大神宮(Hilo Daijingu)

歴史 1898年11月3日、初代宮司合志覚太により創建。

マドレーヌ寺院(La Madeleine, Paris)

概要 ブルボン朝末期、ルイ15世により聖女マドレーヌに捧げる教会として1764年に建設が始まるが中断。1777年に再び工事が始まるが、フランス革命の勃発により基礎工事半ばの状態で中断していた。

サンタ・クローチェ聖堂(Santa Croce, Florence)

修道院と付属美術館 主回廊には、パッツィ家礼拝堂がある。これは1442年から1446年にかけて、参事会会議場として建てられ、最終的に1470年代に完成したものである。先にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームを作ったフィリッポ・ブルネレスキは、精密なシンプルさと簡素さを保てるよう、そのデザインに留意した。

ポルタ・ニグラ(Porta Nigra)

モータースポーツ トリーアをホストタウンとして行なわれるラリー・ドイチュラントでは、ポルタ・ニグラ周辺でスタート・フィニッシュセレモニーが行なわれ、特設コースでのタイムアタックも行なわれる。

ウィリアム3世騎馬像(Equestrian statue of William III, Bristol)

概要 第二次世界大戦中はボーフォート公爵家の邸宅バドミントン・ハウスに疎開移転されたが、1948年に修復ののち広場に戻された。

大阪天満宮(Osaka Tenmangu)

歴史 903年に菅原道真が没した後に天神信仰が広まり始まるが、949年に道真ゆかりの大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そして、それを聞いた村上天皇の勅命によってこの地に天満宮が建立されることとなった。以後、当社は大将軍社を摂社として新たに天満宮が中心の社となる。

オークランド美術館(Auckland Art Gallery)

概要 美術館のコレクションはニュージーランドで成功した投資家のJames Tannock Mackelvieやニューヨークの美術品収集家ジョシー・ロバートソンらの寄贈や遺贈した基金によって充実した。コリン・マッカホン、マーティ・フリードランダー、フランシス・ホジキンス、ゴットフリード・リンダウアーといったニュージーランド生まれの画家や、ヨーロッパ出身でニュージーランドで活動した芸術家やイギリス人芸術家などの作品が収蔵されている。画家自身から寄贈された作品もある。

ストーリー・ブリッジ(Story Bridge)

歴史 ブリスベン商業中心地区の渋滞の緩和およびビクトリア・ブリッジの混雑の軽減を目的として、ビクトリア・ブリッジの下流側に架橋をするという構想は、すでに1920年代にクイーンズランド大学のロジャー・ホーケン教授によるブリスベン川への一連の架橋構想の中で示されていた。

ワット・アルンラーチャワラーラーム(Wat Arun)

概要 ワット・アルンラーチャワラーラームは、創建についての記録は見つかっていないが、アユタヤ朝のペートラーチャー王時代にフランスの軍人によって描かれたチャオプラヤー川流域の地図にあることから、少なくともそれ以前に建てられていたことがわかる。当時の呼び名はワット・マコーク、その後ワット・マコークノーク、ワット・マコークナイと名を変えたが、1767年のアユタヤ朝滅亡後、この地を掌握したタークシンにより修復され、名前をワット・ジェーンとした。そしてトンブリー王朝の王宮寺院となった。

ムルデカ宮殿(Merdeka Palace)

施設 ムルデカ宮殿の敷地は6.8ヘクタールの広さがあり、複数の建物が建ち並んでいる。宮殿には大統領の執務室があり、公務の中心的な施設として機能している。内容は外交団の接待や特命全権大使の信任状捧呈式、閣僚会議などである。8月17日の独立記念日には祝賀の舞台となる。

ブー・イナーニーヤ・マドラサ(Bou Inania Madrasa)

概要 建物の名前である「ブー・イナーニーヤ」は国王の名前である「アブー・イナーン」より採られている。ブー・イナーニーヤは教育施設と礼拝堂の2つの役割を果たしていた。

ジャハーンギール廟(Tomb of Jahangir)

歴史 1605年、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギールが即位したのち、ラホールに建築された。1627年、ジャハーンギールがラホールで死亡したのち、完成していた廟に埋葬された。